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「宗教改革」500周年記念日!ルターが世界を変えた「宗教改革」についてまとめました

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10月31日と言えば世の中はハロウィンで盛り上がりますが

10月31日にはもう1つ記念日があるのをご存知ですか?

 

その名も

宗教改革記念日。

 

歴史の授業で習いましたね?

「ルターの宗教改革。」

 

ね?

覚えてますか?

 

10月31日の宗教改革記念日は、プロテスタント色の強いドイツ東部の州では毎年の祝日ですが

宗教改革から500周年となる2017年は、ドイツ全土で祝日となりました。

 

(私を含め)「(宗教改革って何だっけ、、、?)」という人のために

今回の記事ではルターが行った「宗教改革」についてまとめました。

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「宗教改革」を行ったマルティン・ルター

 

 

※「宗教改革」については諸説ありますが

この記事では、通説となっている事柄について書いています。

 

宗教改革とは

1517年10月31日深夜。

 

ドイツの神学者マルティン・ルター「95ヶ条の論題」という文書を

自身が神学者を務めるヴィッテンベルク城教会の扉に貼り出しました。

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© A.Savin, Wikimedia Commons

ルターが「95ヶ条の論題」を貼り出した、ヴィッテンベルク城教会の扉。

 

ルターが貼り出したこの文書はドイツ中で大きな論争を巻き起こし

その衝撃はその後ヨーロッパ中に広がりました。

 

ルターが教会の扉に貼ったこの1枚の紙は

カトリックとプロテスタントの分裂や、イングランド国教会の独立をもたらしたとされています。

 

「95ヶ条の論題」には何が書かれていたのか?

中近世のヨーロッパ史における重大事件「宗教改革」のきっかけとなった「95ヶ条の論題」。

 

この文書には主に

教会による贖宥状(しょくゆうじょう)の販売を糾弾する内容が書かれていました。

 

贖宥状(しょくゆうじょう)とは?

参照: 贖宥状 - Wikipedia95ヶ条の論題 - Wikipedia

免罪符免償符とも呼ばれる「贖宥状(しょくゆうじょう)」とは

16世紀にカトリック教会が発行・販売した罪の償いを軽減する証明書のことです。

 

カトリック教会は

教会からこの贖宥状を買うことで、自分が犯した罪の償いが出来るようなシステムを作りました。

 

元々は

イスラム教諸国から聖地エルサレムを奪還するために戦った十字軍に対して贖宥(しょくゆう=罪の償いに免除を与えること)を行ったのが始まりで

十字軍に従軍できない者は「寄進」という形で罪の償いに対する免除としたようです。

 

贖宥状は、元々は十字軍の時か100年に1度しか発行されないものであり

その効能も「教会が定めた罰」をいくらか減免させるという限定的なものでした。


そのうち

贖宥状の発行は50年に1度33年に1度25年に1度、、、というように間隔が短くなっていき、やがて頻繁に発行されるようになりました。

 

その効能も「現世での罰の減免だけでなく、煉獄にいる分も、、、」と、大盤振る舞いに拡大していきました。

 

贖宥状を売っている人の中には

「贖宥状があれば、ありとあらゆる罪を無くせるよ!」

「あらかじめ贖宥状を買っておくと、そのあとどんなに悪い事しても大丈夫だよ!」というひどい売り方をする人も。

(ちなみに、これは明らかにカトリックの教理違反。)

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金に目がくらみ、免罪符をばらまく神父(イメージ)

 

贖宥状の販売により得たお金は、主に公益工事の推進教会の修繕のために使われましたが

この贖宥状が最も大々的に販売されたドイツでは、ちょっと違ったお金の使い方もされていたようです。

 

カトリック教会の腐敗

参照:贖宥状 - Wikipedia

ここでは、ルターの宗教改革の発端となったドイツのカトリック教会における腐敗の一例を取り上げます。

 

当時、既に司教の地位にいたアブレヒトという人物は

自身の政治的な権力強化のために、元々1人につき1つしか持つことの出来ない司教の役職を複数持ちたいという野望を抱いていました。

 

複数の司教の地位を得るために、アブレヒトはローマ教皇庁(現在はバチカンにある、全世界のカトリック教会を統率する組織)に多額の献金を行うことにしますが

そこで必要となるのが、お金。

 

「多くの司教の地位が欲しい!」というアブレヒトの私利私欲のため

なんと彼は、贖宥状の販売で得たお金をローマ教皇庁への献金に充てるという方法を思いつき実践しました。

 

庶民には「お金は大聖堂の修繕に充てる」と嘘をついて。

 

なんという腐敗っぷり、、、!

 

「煉獄の霊魂の罪の償いができるよ!」と謳った贖宥状は、アブレヒトの思惑通り飛ぶように売れたようです。

 

贖宥状を、自分の権力強化のために商業化する。

 

そんな腐敗しきったカトリック教会に異議を唱えたのが、マルティン・ルターでした。

 

「95ヶ条の論題」が世界に与えた影響

参照:95ヶ条の論題 - Wikipedia

ルターが教会の扉に「95ヶ条の論題」という文書を貼った結果

カトリック教会とは異なる新しい宗派プロテスタントが生まれ、カトリック教会は贖宥状の金銭での売買を禁止しました。

 

ただし、ルターが世界に与えた影響として大きかったのは「95ヶ条の論題」という文書そのものよりは

ルターという1人の神父、言うなれば教会に勤務する立場である者が教会という大きな組織に異議を唱えたという点だったようです。

ルターは、多くの民衆が言っていたことを1枚の紙にとりまとめただけであり、その最初と最後にルターの名前があるという以外に、文書全体を貫く思想といえるほどのものは無かった。

しかしそのことがかえって、多くの階層の様々な人物に、自由な解釈を可能にしたとも考えられている。与えた影響として重要だったのは、論題の中身というよりは、ルターの意図には反していたかもしれないが、教会に対する批判を公言してもよいのだ、ということだった。

 

ルターは宗教改革を起こす気はなかった?

参照:95ヶ条の論題 - Wikipedia

ヴィッテンベルク大学の神学博士だったルターが掲示した文書は、全編にわたってラテン語で書かれており、一般市民には読めないものであった。つまり、ルターはこの文書を以って一般市民に問題提起しようという意図は全く無かった。

(中略)

ルターが95ヶ条の論題を貼りだしたのは、多くの一般市民に教会の不正を周知する目的ではなく、学問的な討論を呼びかけたに過ぎなかった。

ルターは元々「宗教を改革してやる!」という大きな野望を持っていたわけではなく

ただ単に「贖宥状って、どうかと思う。」ということを神学的に話し合いたいだけだったようです。

 

宗教界も当初は、ルターが書いた「95ヶ条の論題」についてあまり問題視していませんでした。

 

というのも

当時宗教界の大御所であったアブレヒトが、ルターの批判する贖宥状で大儲けをしていた張本人だったので

宗教界全体の意見としては「贖宥状は確かにどうかと思うけど、今は黙っといた方がいい(権力に盾突かんほうがいい)」という考えだったようです。

(ルター自身はアブレヒトが贖宥状で大儲けしている張本人だとは知らず、贖宥状の収入は「大聖堂の再建」に使われると信じていましたが。)

 

ところが

何者かがこの文書をドイツ語に翻訳して印刷業者に持ち込み、当時普及し始めた活版印刷によって複製されたことにより

ルターの「95ヶ条の論題」は、短い期間でドイツ、さらにはヨーロッパ中に広がっていきました。

 

「95ヶ条の論題」を翻訳して印刷業者に持ち込んだのは、ヴィッテンベルク大学の学生の仕業だとも言われていますが

とにかく、ルター本人はまさか自分の行った行動がここまで大ごとになるとは思ってもいなかったようです。

 

ルターの(うっかり)宗教改革から、プロテスタントが出来るまで

参照:95ヶ条の論題 - Wikipediaマルティン・ルター - Wikipedia

上にも書いた通り

ルターはそもそも教会を攻撃することを意図していたわけではありませんでした。

 

ルターは神学者との「討論」を呼びかけただけであり

その討論を通じて、教会の枠内での穏やかな改革を意図していたようです。

 

本人の意図とは違う形で「95ヶ条の論題」が一般庶民を中心に大騒ぎになってしまった直後

ルターはブランデンブルク司教に対して主張の訂正を行い、全面的な撤回すらほのめかしていたんだとか。

 

うーん、ちょっとカッコ悪い、、、?

 

ルターが特に議論を望んだのは

贖宥状の販売そのものではなく、「救済と良心の概念」についてだったようです。

 

つまり

「許し」は、教会や贖宥状では得られるものではなく神の意志によるものだ

という解釈ですね。

 

だからルターは「95ヶ条の論題」の中で

贖宥状を販売する教会を批判しただけではなく、贖宥状を購入する民衆も批判しました。

 
それでも

ルターの「贖宥状批判」は、既存のカトリック教会への不満がくすぶっていたドイツ、さらにはヨーロッパ中に知れ渡っていきます。

 

贖宥状によって利益を得ていたアブレヒト

自分たちの収入が1人の神父の手によって絶たれてはたまらないと、ルターのこの一件をカトリック教会の大本山・ローマに報告。

 

ルターとカトリック教会の間で何度か話し合いが行われたものの

両者の主張は平行線のまま終わりました。

 

「95ヶ条の論題」が貼り出されてから4年後の1521年、ルターは正式にカトリック教会から破門となり

「聖書に書かれていないことは認めることができない」という立場のプロテスタントが確立していきました。

 

ちなみに

カトリックの神父とは違い、プロテスタントの牧師は結婚することが出来ます。

 

自身もカタリナ・フォン・ボラという元修道女と結婚したことから

ルターはプロテスタントにおける教職者、牧師の結婚という伝統を作ったことでも知られています。

 

ただ、そのことで

ローマ・カトリック側はルターを「異端者」「好色家」「犯罪人」と好き放題呼んで批判したそうです。

 

好色家呼ばわりは、、、ヒドイ。

 

宗教改革記念日とハロウィンの関連は?

参照:宗教改革記念日 - Wikipediaハロウィン - Wikipedia

ハロウィンも宗教改革記念日も同じ10月31日なので、何か関係があるのかな?と思ったんですが

ハロウィンと宗教改革記念日は、特に関連はないようです。

 

今でこそハロウィンと言えば「仮装ウェーイ!」なお祭りですが

元々はケルト人を起源とする、秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す行事だったようです。

 

ハロウィンはキリスト教関係のお祭りではないので、プロテスタントの間ではむしろ

「ハロウィンなんて異教徒的でダメ!宗教改革記念日の方を大事にしなさい!」という風潮が強いんだとか。

 

まとめ

今回の記事では

ルターが教会の扉に「95ヶ条の論題」を貼った1517年10月31日から500年が経ったのを祝して

ルターが行った「宗教改革」についてまとめました。

 

改めて「宗教改革」についてみてみると、ルターにはもともと「宗教を改革してやる!」という野心はなく

民衆からの予想外の大反響を受けて、うっかり宗教改革しちゃった☆というような印象を受けました。

(もちろん、そんな軽い感じではなかったんでしょうが、、、。)

 

プロテスタントが生まれるきっかけになったりと、ルターの宗教改革は世界に大きな影響を及ぼしましたが

本人はまさか500年後にもこの日が語り継がれるとは思っていなかったでしょうね。

 

そう考えると、なんだか胸熱。

 

パリピの皆様におかれましては、10月31日はハロウィンの仮装に忙しいとは思いますが

ルターが世界を変えた「宗教改革」に今一度想いを馳せてみるのも、悪くない10月31日の過ごし方だと思います。

 

むしろ

ハロウィンの仮装をルターにするというのもアリかも!?

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悪魔を追い払うためにインク壺を投げるマルティン・ルターのイラスト

 

おわり!